琉球処分と脱清人と尖閣諸島
昨日の朝日新聞社説に、”南西シフトと最前線の民意”と題する下記のような記事が掲載されました。
”日本最西端で台湾最も近い沖縄県与那国町と、尖閣諸島を行政区域に抱える石垣市で今月、首長選があった。両自治体は、台湾有事をにらみ、自衛隊が進める「南西シフト」の最前線に位置する。現地で取材して印象に残ったのは、防衛力強化や日米一体化をどこまで受け入れればいいのかという人々の疑問と、外交による解決を求める切実な声だ。
・・・
24日に投開票捺された町長選では、政府の防衛政策を強く後押ししてきた現職の糸数健一氏(72)らを、強化に慎重な上地常夫町議(61)がやぶった。…”
こうした民意を無視するのは、民主主義の否定であり、地方自治の否定だと思います。
確かめようのないアメリカの情報に基づき、台湾有事を想定して、近隣諸国やNATO諸国との軍事的同盟関係を強化したり、防衛費を増額し、スタンド・オフ防衛能力といわれる反撃能力(敵基地攻撃能力)の整備に1兆246億円という予算を要求したりすることは、憲法に反する先制攻撃の準備だろうと思います。だから私は、反共的なアメリカの戦略に盲従する危険な政策だと思うのです。
トランプ政権の対中政策はよくわかりませんが、基本的にバイデン前政権の政策を受け継いでいるように思います。
ふり返れば、国際社会は、アメリカの方針転換に基づき、「一つの中国」を受け入れ、台湾を国連から追放したのです。それは、1971年7月ニクソン大統領が中国を訪問し、米中関係改善の動きが加速したことがきっかけでした。同じ年の10月、アルバニアが提案した「中華人民共和国の国連における合法的権利を回復し、蒋介石の台湾代表を国連から追放する」(国連総会2758号決議)という決議案が、国連総会で採決されたのです。
でも、中国と敵対するようになった現在のアメリカは、再び台湾を独立国であるかのように扱い、「一つの中国」に反する働きかけをしているのです。
バイデン前政権は発足以来、継続的に台湾への武器売却を議会に諮り、進めていました。それは、台湾の自衛力強化と中国からの脅威に対する抑止力向上を目的としているということでしたが、中華人民共和国の主張する「一つの中国」を受け入れ、国連決議に持ち込んだアメリカのすることではないと思います。あまりに手前勝手だと思います。
また、尖閣諸島を周辺での緊張も高まっていますが、日本では小・中学校学習指導要領社会科で、
”尖閣諸島については,我が国が現に有効に支配する固有の領土であり,領土問題は存在しないことに触れるようにする。
その際,これら我が国の立場は歴史的にも国際法上も正当であることを踏まえて指導するようにする。”
などと定めています。
でも、中国には尖閣諸島(釣魚諸島)に関する明の時代からの記述がいくつもあり、全ての島に名前をつけて、倭寇に対処するための防衛圏に定めていたといいます。
また、明の皇帝の冊封使、陳侃が久米島をもって「乃属琉球者」と書き、次の冊封使、郭汝霖が赤嶼について「界琉球地方山」と書いていることは、久米島が琉球領で、赤嶼が中国領の東のはしの島であり、この両島が、琉球と中国側の領土の境界であると当時の関係者が受け止めていたことを示していると思います。それを「無主地」などとすることはできないと思います。
さらに、「琉球処分」により無理矢理日本に「併合」されるまで「琉球」は中国に冊封する「王国」でした。したがって、尖閣諸島(釣魚諸島)が日本固有の領土であるというのは、無理があるのです。
その無理を押し通すのは、”日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ス”というような皇国史観に基づく強引な膨張政策(領土拡大)を、何の反省もなく受け継ぐ考え方だと思います。
特に、”領土問題は存在しない”という主張は、日本側に中国の主張を退けるような文献や事実がなく、話し合いで中国を説得することができないということを示しているのではないかと思います。数少ない日本の文献のひとつ、林子平の『三国通覧図説』の「付図」は、尖閣諸島(釣魚諸島)を中国領として色付けしているので、話し合えば、勝ち目はないということです。
だから、話し合いではなく、勢いで、日本の領土にしようとして、”領土問題は存在しない”などというのだと思います。
「沖縄について私たちが知っておきたいこと」高橋哲哉(ちくまプリマー新書457)の下記の文章も、そのことを示していると思います。
現在の日本では、琉球処分の実態や脱清人の存在は、ほとんど取り上げられません。だから、現状では中国との関係改善は難しいと思います。
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第一章 沖縄の歴史
一 琉球処分
宮古・八重山「分島・増約」案
明治政府による琉球の併合は当然ながら波紋を引き起こしました。清は琉球王に対して冊封する立場にあったので、日本による一方的な措置に反発しましたし、琉球でも当時の士族のなかに抵抗運動が起こりました。日本に併合されることに反対する人たちが清にわたって窮状を訴え、琉球国再興のための助力を求める活動を行ったのです。この人々を「脱清人」といいます。
少なくとも数十人の脱清人が現在の福建州福州の琉球館に集まって活動したと言われています。彼らの訴えを聞いた清は、当時東アジアを訪問していた米国のグラント前大統領に仲介を依頼しました。清がまず示したのは、奄美諸島については日本領として認め、琉球王国を存続させ、宮古八重山諸島については清のものとするという三分割の案でした。
これに対して日本は、沖縄県までを日本領として、宮古・八重山諸島を清の領土とし、清は日本に最恵国待遇を与えるという案を出します。日本は宮古・八重山諸島を清に譲る代わりに、日清修好条規(1871年)を改正して、日本が通商上、清国内で欧米諸国と同等の待遇を与えられるよう要求したのです。
これがいわゆる宮古・八重山「分島・増約」案でした。
清もいったんは日本の案に合意しましたが、脱清人はこのニ分割案に強く反対し、林世功(リンセイコウ)が抗議の自決をしたことなどで清国政府が態度を変え、合意が白紙に戻ります。
この分島・増約案の顛末から何が見えてくるでしょうか。それは明治政府にとって沖縄どうしても死守したい領土ではなく、大国との取引で場合によっては分割したり、その一部を手放してもよいものであったということではないでしょうか。明治政は、いったんは宮古・八重山を清の領土とすることに合意したのです。
アジア太平洋戦争末期にも、示唆的なことがありました。昭和天皇の命で近衛文麿がまとめた「和平交渉の要項」(1945年7月)では、琉球諸島は日本の固有本土から除かれ、やむを得ない場合は放棄することも可能とされたので。
現在、日本政府が「我が国固有の領土」と主張している尖閣諸島は、行政上は沖縄県石垣市、つまり八重山に属していることも指摘しておきましょう。
分島・増約案が流れた後、朝鮮をめぐって日清は対立し、日清戦争が起こります。この戦争で日本が清に勝利したために、脱清人たちの琉球救国運動は実を結ばず、日本の琉球併合と沖縄県設置が確定することになったのです。

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